この1年半はコロナに翻弄されて怖かった。それでも私がはっきり記憶している恐怖は小学生の時に体験した空襲である。 昭和20年、鹿児島でも米軍の空襲が始まった。学校の授業は空襲を避けて、山の中で行われた。空襲警報が鳴ると、防空頭巾をかぶり防空壕に避難する。8月には母校が焼夷弾で焼失し、間もなく終戦となった。 戦後は食糧難に見舞われた。「おなかがすいた」と、母に弟と訴えると、なけなしの切干カンショを煮て食べされてくれた。空襲の怖さとあのひもじさを思えば、コロナなど何のそのと言いたくなる。 鹿児島市 田中健一郎(83) 2021/8/13 毎日新聞鹿児島版掲載
↧